石山寺の歴史

東大寺の大仏建立のための祈願がなされた石山の地は、古来より神聖な場所とされてきました。石山寺創建の後は、真言密教の道場・学問の寺として名を馳せるほか、文学者の訪れる地でもありました。

石山の地

「この山の上に八葉の蓮華のような大きな岩があり、そこは紫雲たなびく美しい場所である。ここが観音の聖地である」。『石山寺縁起絵巻』第1巻には、近江の守護神 比良明神が石山の地についてこのように述べる場面が描かれています。このことから、石山寺は古来より神聖な土地として人々の信仰を集めていたことがわかります。

石山寺は、その名の通り石の山の上に建つお寺です。境内の本堂前には大きな岩がそびえたっています。こちらは天然記念物の「硅灰石」というもので、世界的にも珍しいものです。本堂や多宝塔はこの「硅灰石」の上に建てられています。

天智天皇の時代には、この地は石切り場とされ、石山寺の石が奈良 川原寺の本堂の基礎石として使われていたことが、近年の研究でわかりました。昔の人々は、奇岩ともいえる「硅灰石」のこの山を、神仏のよりどころのように感じていたのではないでしょうか。

また、石山寺の東大門前はアジアでも最大級の淡水産貝塚が発見された地でもあります。こちらの貝塚は紀元前7000年前の縄文時代のものと考えられており、土器、人骨、石器など特色ある遺品が出土しました。人々が生活していた痕跡から、その時代より石山の地は湖と山の幸に恵まれた、住みよい土地であったといえるでしょう。

石山貝塚 貝層剥取 画像
石山貝塚 貝層剥取(大津市石山貝塚所蔵)
左:石山寺観光協会/中央:大津市埋蔵文化財調査センター/右:滋賀大学教育学部
袈裟襷文銅鐸(重要文化財)
高さ90.0cm 弥生時代
『石山寺縁起絵巻』第1巻には、石山寺の造営の際、銅鐸が見つかった場面が描かれています。弥生時代終末期のこの遺品は、縁起絵巻に描かれるものと同様のものとみられ、貴重な宝物として石山寺に収められています。
袈裟襷文銅鐸 画像

奈良時代

創建にまつわる物語

天平19年(747)、石山寺は聖武天皇の勅願により、良弁僧正が建てられた寺院と伝えられます。良弁僧正は聖武天皇から、東大寺の大仏建立にあたって黄金が不足しているので、黄金の産出を祈願するようにと命じられました。はじめは吉野の金峯山で祈願していた良弁僧正ですが、蔵王権現の夢告を受けて、この石山の地にたどりつきます。
そして岩の上に、聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏を祀って祈願したところ、陸奥国で黄金が発見されました。祈願が達成されたため、念持仏を移動させようとしましたが、岩から離れなかったので、そこに草庵を建てて寺院としたのが石山寺の始まりであると言われています。

東大寺建立と石山寺

『正倉院文書』によると、石山寺は東大寺建立に大きな役割を果たしました。創建当初、東大寺は現在よりも大きな堂塔を有する伽藍であったため、建築資材が大量に必要でした。そこで資材である木材の集散地となったのが、この石山の地だったといいます。現在の滋賀県甲賀、高島などの山々から切り出された木材は、琵琶湖が瀬田川となって流れる要地 石山に一旦集められ、水路を使って送り出されました。瀬田川から淀川へ下り、大和川をさかのぼって、奈良の都へ運ばれたと考えられています。良弁僧正の祈願の後も、石山寺は東大寺創建という国家事業にとって重要な地であったことがわかります。

良弁僧正 画像
良弁僧正(689〜773年)

平安時代

70年続いた勅命の常楽会

石山寺は創建当初から国家的な役割を担っていましたが、それは平安時代に入っても引き継がれました。延暦23年(803)、桓武天皇の勅命によって常楽会が営まれました。常楽会(じょうらくえ)とは涅槃会(ねはんえ)ともいい、釈迦の入滅の日にその遺徳を称えて厳修する法要です。

この費用には近江の国税が充てられ、官人が奉仕していたといい、また舞楽付の煌びやかな法要だったようです。この様子は、『石山寺縁起絵巻』第1巻にも描かれ、今に伝わっています。

法要までの御練写真

華厳宗から真言宗の寺院へ

石山寺は創建時の東大寺との関わりから、もとは東大寺と同じ華厳宗に属していましたが、平安時代に真言宗・天台宗の密教が盛んになり、真言密教の道場になりました。石山寺初代の座主は、真言小野流の始祖である醍醐寺の理源大師聖宝がつとめました。

その後二代目に聖宝の弟子 観賢、三代目は淳祐内供が座主となり、いよいよ真言密教の道場として台頭してきました。石山寺の中興の祖といわれるのが、淳祐内供です。淳祐内供は菅原道真の孫にあたり、朝廷の信頼も厚かったため、ますます多くの平安京の人々が石山寺を訪れるようになりました。

雅の台から見た本堂(国宝) 画像
雅の台から見た本堂(国宝)

石山詣

平安時代には、貴族たちによる石山詣が盛んになりました。当時の人々は京の都から逢坂の関を越え、打出浜からは船に乗って石山寺まで来ました。それからお堂に籠って、夜通し祈願したそうです。

石山詣は特に女性の間で流行したようで、紫式部をはじめ、藤原道綱母、菅原孝標女など、数々の女流文学者に霊感を与えてきました。霊験あらたかな石山の観音さまの功徳に加え、琵琶湖から流れ出す瀬田川と、伽藍山の木々に囲まれた風光明媚な立地も、昔から参詣する人々に文学的喚起力を与えてきたことは疑いありません。その後も、いろいろな時代にさまざまな人々が石山寺をめぐって文学を紡ぎだしてきました。

石山詣(石山寺縁起絵巻 第三巻第一段) 画像
石山詣(石山寺縁起絵巻 第三巻第一段)

本堂の再建

平安時代、石山寺は火災に遭っています。承暦2年(1078)、雷災のため本堂が半焼しました。この時、寺宝や仏像の多くは外へ運び出されましたが、塑像であった初代の本尊如意輪観世音菩薩は損壊してしまいました。永長元年(1096)本堂が再建され、その時作られた内陣は、滋賀県で最古の木造建築として現在は国宝に指定されています。この時木造の本尊二臂如意輪観世音菩薩も新しく造立され、胎内には4軀の金銅仏が収められました。

鎌倉・南北朝・室町時代

武家とのかかわり

平安末期には武家の地位が上昇し、源平の乱を経て、源頼朝が開いた鎌倉幕府による武家政治が始まりました。石山寺の建造物には、源頼朝の寄進とされるものが多くあります。国宝の多宝塔は建久5年(1194)に頼朝の寄進で建立されたことが墨書からわかっており、他に東大門や鐘楼も頼朝の寄進と伝わります。

また、『石山寺縁起絵巻』第6巻には、源平の乱にあたって源頼朝の命を受けて戦った中原親能が、石山寺の毘沙門天に戦勝を祈願し、事の成就に感謝して勝南院を建立したことが記されています。このように武家によって多くの堂宇が建てられた石山寺は、その後も鎌倉幕府より様々な保護を受けることになりました。

室町幕府を開いた足利尊氏もまた石山寺と深いかかわりがあります。建武5年(1338)、足利尊氏は天下泰平を祈願して大般若経千部の読経を頼み、暦応4年(1341)には尊氏みずから参詣して、祈願成就のための刀一振を奉納しました。

石山寺 多宝塔 画像
多宝塔(国宝)

安土・桃山時代

寺領五千石を失うが、本堂など主要な伽藍は厄災を免れた

石山寺は京に上る要所として、しばしば武将の陣営に利用されました。足利義昭は天正元年(1573)、近江の安土城を築いた織田信長と争い、石山寺を陣地としました。この巻き添えとなり、多くの堂宇が兵火に遭い、東大門も損傷しました。
その際、本堂や多宝塔、鐘楼といった建物は焼かれずに無事その姿を保つことができましたが、織田信長によって寺領五千石も没収されるという憂き目にあっています。
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げ桃山時代を迎えると、没収された寺領の回復が行われました。

三十八所権現社 画像
三十八所権現社(桃山/1602)

江戸時代

淀殿の寄進で大改修が行われ、今の石山寺の姿ができあがった

慶長年間(1596~1615)、淀殿の寄進で焼失した堂宇の修復・再建が行われました。本堂の礼堂(外陣)、東大門、経蔵などはこの時改修され、桃山時代の特色を色濃く残しています。この時の修復が大規模なものであったといわれており、現在の石山寺の姿はこの時完成したのです。

石山寺 東大門 画像
東大門(重要文化財)
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