おうちで紫式部展 解説「奉祝吉祥令和石山」祖師像篇
こんにちはなのじゃ
風薫る五月も、もう過ぎようとしているのじゃ
本日は
「おうちで紫式部展」祖師像篇
をお送りするのじゃ
祖師像
「祖師像」というテーマでの展示じゃが、
「祖師」って一体何なのかな?
大日先生に聞いてみるのじゃ
パカッ
(石山多宝くんのお腹の中には、
「大日(だいにち)先生」が入っておられ、
色々な疑問に答えてくれるのです!)
ジャーン
(石山多宝くん)
大日先生、お久しぶりなのじゃ
(大日先生)
こんにちは、多宝くん。久しぶりだね。
早速なのじゃが、大日先生にききたいことがあるのじゃ
「祖師像」って一体何なのじゃ?
良い質問だね。
「祖師像」というのは、
仏教の宗派や、そのお寺を開いたり貢献された偉いお坊さんを
絵や彫刻で表したものを指して言うんだよ。
そうなのじゃな!
石山寺でいうと、お寺を開基された良弁僧正(ろうべんそうじょう)が
その一人ということかの?
その通り!
大きなお寺に行くと、「開山堂」や「祖師堂」「御影堂」といった御堂があって、
お祖師さまをお祀りしていることが多いよ。
石山寺にも「御影堂」があって、中には第三代座主 淳祐内供(しゅんにゅうないく)のお像、
真言宗の開祖である弘法大師のお軸がお祀りされているね。
石山寺の御影堂
なるほどなのじゃ
そういえば本堂内陣にも良弁僧正のお像があったのじゃ
今度ちゃんとお祖師さまにご挨拶にいかねばならないのじゃ
良い心がけだね。お祖師さまもきっと喜ばれるよ。
皆さんも、お参りの際は御影堂にも足をお運びくださいね!
それでは、また何か質問があったら呼んでね。
大日先生、ありがとうございましたのじゃ
大日先生は何でも知っているのじゃ
また何かわからないことがあったら聞いてみるのじゃ
さて、今回はその祖師像について解説するのじゃ!
石山寺の長い歴史の中には、とくに信仰と学問を深めたお坊さんがいたのじゃ
そのお姿は祖師像として、大切に伝えられておるのじゃ
上の写真は右から、
石山寺を開かれた良弁僧正、
石山寺の真言宗としての初代座主 理源大師、
石山寺の三代目の座主 淳祐内供 のお姿じゃ
続いて朗澄律師の肖像画を展示しておるのじゃ
良弁僧正のこと
良弁僧正は、石山寺を開かれたお坊さまじゃ
東大寺の初代別当職で、
東大寺の大仏建立のときに、聖武天皇の命によって、
大仏さまを飾るための黄金を求めて修法を行われたのじゃ
吉野の地では蔵王権現さんから、
石山の地では比良明神さんから託宣(お告げ)を授かり、
石山の地でお祈りされたのじゃ
「石山寺縁起絵巻」巻第一より
この絵は、良弁僧正と釣りをしている老人が出会った場面じゃ
右側のオレンジ色の服を着た老人は、実は比良明神という神さまの化身だったのじゃ
比良明神さんのお告げのとおりに岩の上に観音さまの像を安置して拝むと、
見事に陸奥国から金が産出され、大仏さまのお身体を荘厳することができたそうな
絵巻には、観音さまがこの地を気に入って離れなかったとあるのじゃ
これが石山寺のはじまりなのじゃ
理源大師のこと
理源大師は聖宝(しょうぼう)さんというお名前なのじゃ
出家されてはじめは東大寺に入り、三論宗を始め諸宗派を学ばれたのじゃが、
真言密教の継承者ともなった方じゃ
創建当初、東大寺との関係から石山寺は華厳宗だったのじゃ
創建時は平城京を中心に、南都六宗(三論、法相、華厳、倶舎、成実、律)が盛んだったのじゃが
のちに天台・真言の二宗が盛んになり真言密教の道場となったのじゃ
それが理源大師のときじゃから、理源大師が初代座主なのじゃ
理源大師は同じ真言宗の醍醐寺座主も務めておられた方じゃ
醍醐寺さんは西国三十三所観音霊場の第十一番目で、石山寺とも関わりの深いお寺なのじゃ
淳祐内供のこと
石山寺には一切経、校倉聖教という重要文化財に指定されるものをはじめ、
多くの経典・聖教類が保存されておるのじゃ
その中に薫聖教(国宝)とよばれる73巻1帖の聖教類は、
第三代石山寺座主・淳祐内供(しゅんにゅうないく)の書かれたものなのじゃ
「石山寺縁起絵巻」巻第二より
淳祐内供のお姿も、「石山寺縁起絵巻」巻二に描かれておるのじゃ
左上、本堂の中で二人の僧に揺さぶられておるのが淳祐内供じゃ
絵巻によると、淳祐内供は少年の頃、愚鈍であることを嘆いて、
毎夜石山寺の観音さまに祈っていたそうじゃ
すると夢の中に老僧2人が現れて、腕を持って揺さぶられたそうな
夢から覚めると、淳祐内供は明敏になっていたということじゃ
淳祐内供は菅原道真公の孫で、梵字の研究に秀でた学僧だったのじゃ
「石山寺の中興の祖」といわれる方でも、
少年の頃は悩まれたのじゃな・・・
***
2020年5月28日追記
「薫聖教(においのしょうぎょう)」とは何ぞや?というご質問がありましたので、
リンクを貼っておくのじゃ→学問の寺
リンク先で聖教の一部をご覧いただくことができますのじゃ
「薫聖教」は、淳祐内供が書かれた聖教(密教で修法の方法、順序等を記したもの)なのじゃ
延喜21年(922)、淳祐内供は師匠の観賢僧正に連れられて
高野山の空海さんのところへ参ったのじゃ
石山寺に伝わる弘法大師図 空海さんのお姿じゃ
このとき空海さんは、永遠の瞑想に入られていたのじゃが
醍醐天皇から空海さんに「弘法大師」という謚号(おくり名)と紫衣を賜ったので、
それをお伝えするために高野山に登ったのじゃ
そのとき、淳祐内供が空海さんのお膝に触れると、
手に良い薫りがうつり、生涯離れなかったそうじゃ
その良い薫りのする手で書写した聖教が「薫聖教」なのじゃな
現在は国宝に指定されておる
貴重な宝物なので、なかなか展覧会に出ることは少ないのじゃが
機会がありましたら、ホームページなどでお知らせしますのじゃ
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朗澄律師のこと
石山寺には図像の収集・研究に秀でた学僧もおったのじゃ
とくに朗澄律師(ろうちょうりっし)という方は、石山の聖教を守り、
死後も鬼神の姿になって石山の聖教を守護し続けると遺言されたのじゃ
もともとはこういうお姿なのじゃが・・・
「石山寺縁起絵巻」巻六より
「石山寺縁起絵巻」巻六には、その通り鬼となって示現したお姿が描かれておるのじゃ !
強そうなのじゃ
鬼は鬼でも、金色の鬼なのじゃ
仏の使いであることを表しているのじゃな
石山寺で毎年5月に行われる「青鬼祭り」は、朗澄律師をしのぶ行事なのじゃ
今年の青鬼祭りの様子じゃ
今も石山寺を守ってくれている良い鬼さんなのじゃ
尊賢僧正のこと
肖像画は展示していないのじゃが
忘れてはならないのが、尊賢さんじゃ
わしが「寺誌によると~」という話しをするときは、
だいたい尊賢さん選述の『石山要記』や『石山寺年代記録』などの
記録類を参照しておるのじゃ
この方のおかげで、石山寺には近世の記録が豊富に残っておるのじゃ
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石山寺に伝わる「祖師像」について解説したのじゃ
今日はこのあたりにしておこうかの
次回は仏さまのお話をしようかと思うのじゃ!