御開扉に関する歴史について
古来より人々の信仰を集める御本尊如意輪観世音菩薩は、作品としても永長元年(1096)に造立された優品であり、重要文化財に指定され優れた像容を示しています。
石山寺「日本唯一勅封観音 御本尊如意輪観世音菩薩 御即位御吉例 御開扉」のはじまりは、「石山寺縁起絵巻」により広く伝えられました。
「石山寺縁起絵巻」に記された歴史と観音像
「石山寺縁起絵巻」によると、石山寺は天平19年(747)、聖武天皇の勅願により良弁僧正が創建されました。聖武天皇は東大寺盧舎那仏の体を荘厳する金の産出の祈願を良弁僧正に命じました。良弁僧正がその言葉のとおり石山の地で岩の上に観音像を置き祈願したところ、陸奥の国から黄金が産出され、無事に大仏の体を荘厳することができました。その際、岩の上から観音像が離れなくなり、そこに草庵を建てたのが石山寺のはじまりと縁起絵巻は伝えています。硅灰石の岩塊からなる石山は、まさに観音のおわす補陀落山そのものだったのです。
蔵王権現・執金剛神 二柱の脇侍
御本尊如意輪観音菩薩の脇侍は、蔵王権現・執金剛神の二柱です。良弁僧正が東大寺で信仰していた執金剛神、良弁僧正に夢告を与えた吉野の蔵王権現という、石山寺にとって重要な仏さまが観音の両脇に安置されています。
元本尊の脇侍であった蔵王権現像の心木(重要文化財)も、内陣で公開しています。
初代の御本尊の史実 正倉院文書から
『正倉院文書』によると、天平宝字5年(761)、石山寺の硅灰石の上に作られた礒座(岩座)の上に塑像の丈六観音菩薩像が造像開始されました。石山寺の創建が東大寺と深い関わりを持っていたことは先に述べたとおりですが、東大寺にとって重要な資料である『正倉院文書』に石山寺の観音造像について記述されていることは特筆すべき事項です。
胎内仏と聖徳太子の念持仏
石山寺創建の際、良弁僧正が岩の上に祀ったのは聖武天皇から預かった観音像でした。これは聖徳太子の念持仏であったとも伝わり、今回公開する胎内仏のいずれかがそのときの観音像である可能性が高いと考えられています。また、『石山寺縁起絵巻』には、承暦2年(1078)の本堂火災のことが詳しく記されています。絵巻によると、火難を逃れようと僧侶たちが仏像や経典を大急ぎで運び出していたところ、ある観音像が自ら本堂より飛び出し、柳の枝に引っかかっていました。この観音像が胎内仏のいずれかであるとも伝わっています。