さざなみが煌めく琵琶の湖水が、やがて穏やかな流れとなる瀬田川、石山寺はその西岸の伽藍山の麓の景勝地にあります。その創立は、東大寺大仏造立のための黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた寺院です。また、本尊の秘仏如意輪観音像は、安産、厄除け、縁結び、福徳などに霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めています。
 石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めるとともに、多くの庶民の崇敬をも集めました。その後も、源頼朝、足利尊氏、淀殿などの後援を受けるとともに、西国三十三所観音 霊場として著名となり、今日まで参詣者が絶えません。
 
 石山貝塚はセタシジミやタニシなどを中心とする貝塚で、淡水産としてはわが国最大規模のものです。ここでは縄文早期の土器や石器類、人骨なども発掘され、考古学研究の貴重な資料となっています。
 また、749年に石山寺が建立された際、地中より五尺の銅鐸が出土し、このことが「石山寺縁起絵巻」にも描かれています。
 
 『石山寺縁起絵巻』(重文)は、良弁僧正の石山寺創建から始まる寺の縁起や、本尊のあらたかな霊験の数々を記した全七巻の紙本着色絵巻物です。
 また、土佐光起筆と伝えられる「源氏物語絵巻 末摘花」(重文)を所蔵しています。
 
 石山寺には、中国唐代初期の学者である顔師古の注釈による漢書の古写本があります。高帝紀第一下は奈良時代に書写され、全巻に注が朱書されている他、十世紀中頃に角筆で訓点が紙面を凹ませて挿入されています。
 
 境内の本堂(国宝)は、巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建てられています。この本堂内にある「源氏の間」は、かつて紫式部がその窓から十五夜の月を眺めたときに、霊感をうけ源氏物語の構想を得たと伝えられます。
「右少弁藤原為時の娘、上東門院の女房であった紫式部は一条天皇の叔母の選子内親王のためにと、女院から物語の創作を下命され成就を祈願するため当寺に七日間参籠した。心澄みわたり、にわかに物語の構想がまとまり、書き始めた」『石山寺縁起絵巻』には、このように記されています。
 
 源平の乱にあたって源頼朝の命を受けて戦った中原親能は、石山寺の毘沙門天に戦勝を祈願し、事の成就に感謝して勝南院を建立しました。
このとき源頼朝は、乳母であり親能の妻でもあった亀谷禅尼の請によって、多宝塔(国宝)、東大門、鐘楼などを寄進しました。
 
 
 奈良時代中頃から仏堂の前に礼拝のためのお堂が建てられるようになり、『石山寺縁起絵巻』の円融上皇の参詣の図に、すでに礼堂が描かれています。現存する舞台造りの礼堂は、近江浅井氏の娘であった淀殿が、慶長年間に再建したものです。また、淀殿は東大門の大修理も行っています。
 
 
 近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台に設けられ、後白河天皇以下歴代天皇の玉座とされました。この月見亭の隣に芭蕉庵があります。俳聖松尾芭蕉は、たびたびここに仮住まいをして、多くの句を残しています。
 石山の 石にたばしる あられかな
 あけぼのは まだむらさきに ほととぎす
 瀬田川周辺には、芭蕉ゆかりの地として墓地のある義仲寺の無名庵、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが点在します。
 
 
 自然主義文学者の島崎藤村は、石山寺の茶丈である密蔵院で約二ヵ月間生活し、このときのことを文学界第七号に「茶丈記」として寄稿しています。
また、境内には『石山寺にハムレットを納むるの辞』の一節が、文学碑として設けられています。
 
 
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