座主のお話

2024年4月6日座主のお話

歴史に残る・残らない

実は数年前に、とある方の絵のモデルをしたことがあり、
その絵は今お寺で所蔵しています。
作家さんが展覧会に出すための絵のモデルだったのですが、いわゆる肖像画扱いになるので、
もし私が死んでも、その絵を見た人は私の風貌を知ることができます(別に知らなくて良いのですが)
ちなみに非公開です。

一方で、私がこの先、もし仏さまの顔に泥を塗るような人間になってしまったとしたら、
後世の人は私という存在を歴史から消したいと思うでしょうし、その絵もきっと打ち捨てられてしまうでしょう。

お寺という場所には歴史があり、石山寺にも古くは奈良時代に書かれた経典なども現存しています。
昔はそれらは「経蔵」に収められていましたが、現代では温湿度管理をきちんとした収蔵庫で保管されています。
お寺には古いものがたくさんあるので、それを後世に伝えていくという役割があります。

「何かを遺したい」と思ったとき、例えば芸術作品などは、
それがふさわしいものであれば、お寺や神社などに奉納すると、何百年も残っていく可能性が高いでしょう。

現在私たちが知り得る歴史は、同時代あるいは後世の人が残そうとした記録に依ります。
例えば今の平安古典文学ブームに則っていうと、
紫式部が残した『紫式部日記』や藤原道長の『御堂関白記』、
藤原実資の『小右記』などは、平安時代の生活を記した貴重な記録であり、
彼らがそれを残してくれたこと、またそれを残そうとした人がいたことによって
私たちが平安時代の生活を知ることができます。

ということは、誰も残さなかったものは残らないということ。
また、その時代の人が残したとしても、後世に残そうとしようとされなければ、歴史の中で失われてしまいます。
どんなにすぐれた人物のことであっても、誰かが書き残さなければ伝わっていかない。
そして、残したいものだけを残しますので、後世の人によって書かれたものならば、
事実は曲解されますし、それ以外の部分は削除されてしまいます。

人間という存在がこの世界に現れてから、時代が進むなかで、
たくさんの人が笑い、嘆き、怒りながら一生懸命生きてきました。
誰にも顧みられずに一生を終えた人も中にはいるかもしれません。
というか、歴史に残っていない人のほうが圧倒的に多いことでしょう。

歴史に残った人がすごくて、残らなかった人はそうではない、というのは、
ちょっと違うのかな、と思います。

なぜなら、人が一人存在するということはそれだけで多くの人に影響を与えるからです。

「自分はいてもいなくても同じだ」という人は、果たしてそうでしょうか。
道端の草花でさえ、人の心になにかを語りかけます。
なにげない景色や道行く人をみて、なにかを感じたという経験は誰にでもあるものだと思います。
生きている限り、影響を与えない存在はありません。

間接的にでも、人は一人きりでは生きていけません。
誰かに生かされているという事実があること。
その循環のなかに、いやでも自らは入っているということです。

そして人に与えたよいものは、巡り廻って大勢にもっとよいものをもたらすかもしれないし、
あるいは自分に戻ってくるものなのかもしれません。

歴史に残ることは確かにすごいけれど、
今を生きることで周りの人にどんな影響を与えられるか?ということのほうが、
本当は大事なのではないかなと思っています。

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