物語と信仰
久しぶりの更新になりました。
お彼岸には雪も降っていましたが、
石山寺では今日の午後、ようやく桜が開花しました。
こちらは4年ほど前の写真(今日の写真がないので……)
これからどんどん暖かくなりますね。
穏やかな気候になるとはいえ、気温の変化に体がついていくのは大変です。
年度末ですが、今は無理して過ごす時期ではありません。
皆さまどうぞご自愛ください。
*
今年は大河ドラマの関係もあり、石山寺では例年以上に
多くの参拝者が訪れています。
石山寺は紫式部が『源氏物語』を起筆した場所として知られています。
境内には今年1月29日から大河ドラマ館が設営されており
より多くの方に、紫式部という人を通してお寺を知っていただくのは
とても有り難いことです。
「観光」という言葉は物見遊山的な、ある意味不真面目な印象を与えがちではありますが
それをひとつの縁として、観音さまにお参りいただくのはとても良いことだと思います。
お寺には神仏の存在があり、人はそこを中心に営み、住まわせていただいていて、
知らず知らずのうちに恩恵を受けていたりするのだろうと思います。
まずはその恩恵に気がつき、感謝する場所であること。
また、仏というものが外にあるだけの存在でなく
内にも存在する、ということを見つめる場所、
すなわち心を修練する場所であるということも、忘れてはいけないことです。
*
平安時代、「石山詣(いしやまもうで)」が貴族を中心に流行しました。
石山の観音さまの利生は多くの文学作品に登場するものであり
『源氏物語』以前(と考えられる)には、『落窪物語(おちくぼものがたり)』にも登場します。
これは、継母のいじめによって落窪(畳の落ちくぼんだ間)の中に押し込められていた姫が
貴公子に見初められて助け出され、幸せになるというシンデレラのような物語です。
物語の中では、継母の家族が皆で石山詣に行く計画を立てているなか、
落窪の女君は仲間はずれにされ、連れて行ってもらえません。
ですが、皆の留守の間に右近の少将が尋ねてきて、二人は結ばれます。
石山詣には行けなかった落窪の女君ですが、右近の少将に見いだされたのは、
石山の観音さまのおかげである、とも読み取ることができます。
昔の人も物語を読み、そこから観音さまの不思議なお力というものを感じたのだと思います。
そして読者は、おそらく自らも神仏の霊験に浴したい、と願ったことでしょう。
*
平安古典文学を読んでいると、当時の人が豊かな感受性を持っていたことに驚かされます。
多くの仏教説話というものが存在するように、
物語というものを通して、人は自らと神仏との接点を見いだすものです。
目に見えぬ助けであったり、
自らの恵まれた点であったり
周囲の人の温かさであったり……
神仏の場所に参詣することによって、
そういうものに気づくことができるような自分になる、という経験を
色々な人がしてくださったら嬉しいな、と思うこの頃です。