石山寺縁起絵巻ガチャ登場!
石山寺の創建と観音の霊験譚、貴顕の石山詣などを描いた「石山寺縁起絵巻」(重要文化財)が
アクリルキーホルダーになりました。
1回500円、豊浄殿にて10月10日(木)販売開始予定です。
※豊浄殿開館時間 10時~16時の間のみの販売です
「石山寺縁起絵巻」33段より10場面を選んでいます。
巻一第一段 石山寺創建~良弁僧正、比良明神と出会う~
東大寺の良弁僧正(689-773)は聖武天皇の勅命によって、大仏建立のための黄金を得るため吉野の金峯山へ行きました。
そこで、蔵王権現より石山へ向かうよう、お告げを受けます。
良弁僧正がその地へ赴くと、石の上に老翁姿の比良明神が座っていて、ここが観音の霊地であると告げます。
最初の場面は、まさに石山寺の創建に関わるエピソードです。
絵には、良弁僧正と比良明神の邂逅が描かれています。
その後、良弁僧正は山上の八葉蓮華の石の上に観音像を安置し祈ったところ、
観音の霊験によって程なく奥州より黄金が献上されました。
観音像が岩の上から離れなかったので、良弁僧正は比良明神よりこの地を譲り受け、石山寺を建立しました。
巻二第四段 源順「まで」を知る
この場面は、観音の力で問題が解決したエピソードが描かれています。
康保(964-968)の頃、源順(みなもとのしたごう、911-983)は
勅命を受け『万葉集』を読み解いていました。
その作業が難航したため石山寺へ参詣したところ、帰り道に「左右」を「まで」と読むことを知る機会を得ます。
絵の背景には道中の民家の様子が描かれており、そこに飼い猫が登場します。
猫が首輪によって繋がれていた、ということを示す絵でもあります。
巻二第六段 歴海和尚、龍を呼ぶ
石山寺には龍穴があり、そこで寺僧の歴海和尚が『孔雀経』を転読しました。
経典に説かれる龍王の名が読まれると、名を呼ばれた龍王たちが池の中より姿を現し、
歴海和尚に近侍し、護衛したのでした。
経を読むときに歴海和尚が座った石は「尻懸石」と呼ばれ、今も境内に残っています。
巻三第三段 菅原孝標女、夢で観音より麝香を得る
寛徳二年(1045)11月、菅原孝標女は雪の降る中、石山寺に参籠します。
少しまどろんでいると、内陣より麝香を差し出され、はやく点けるようにと告げられる夢を見ます。
これはご本尊のはからいであろうと、孝標女は尊く思いました。
石山寺参籠のことは『更級日記』にも記されています。
巻四第一段 紫式部、『源氏物語』の着想を得る
紫式部はお仕えする上東門院より、選子内親王のために物語を作るよう命じられ、
そのことを祈るために石山寺へ七日間参籠しました。
琵琶湖の方を眺めると、心が澄み渡り様々な情景が心に浮かびました。
これが後に『源氏物語』となり、紫式部が物語の構想を書きつけた場所は「源氏の間」と名付けられ、
今も本堂に残っています。
絵巻の詞書には、紫式部が観音の化身であると伝えられると記されます。
巻五第一段 藤原国能の妻、観音より宝珠を得る
天治の頃(1124-26)、藤原国能の妻が夫との不仲を嘆き、石山寺に参籠しました。
本堂でまどろんでいると夢の中に観音が現れ、
本尊如意輪観音菩薩の持物である如意宝珠を授かります。
目を覚ますと手の中には宝珠があり、喜んで持ち帰ったところ、
夫との関係は良好になり、子供にも恵まれ、家は富み栄えました。
巻五第三段 下人、うっかり落とした院宣を取り戻す
東国の人が公家に訴えるため京へ上り、院宣を手に入れます。
院宣を下人に持たせて帰りますが、瀬田の唐橋で川中へ落としてしまいました。
慌てて石山寺へ参詣し祈ったところ、宇治で魚を買うようお告げを受けます。
さっそく宇治へ向かい鯉を買い取ると、その腹の中から院宣が見つかりました。
巻六第二段 朗澄律師、死後に鬼となって聖教を守護する
石山寺の学僧・文泉房朗澄律師は学徳に優れ、自身の住坊に書庫を建てて
石山寺に受け継がれる聖教を収納し、死後も鬼となって聖教類を守護すると誓われました。
朗澄律師の死後、夢でお告げを受けた弟子の行宴は、夢告に従って奥山へ行き、
金色の鬼となった朗澄律師の姿を目にします。
後世の僧侶たちはその意思を引き継ぎ、聖教を大切に守り伝えました。
現在も石山寺には「石山寺一切経」(重要文化財)約4600件、「石山寺校倉聖教」(重要文化財)約1900件をはじめとする、
歴代の寺僧らによって収集・整備された経典、聖教類が数多く伝わります。
巻七第二段 観音、白馬と化して娘を救う
正応年間(1288-93)、白河の辺りに住む貧しい尼の娘は、
ある人に勧められて孝養のため石山観音に祈っていました。
その甲斐なく、母を助けるために身売りしますが、打出浜で船に乗ったところ嵐に遭います。
一心に石山観音へ祈ると、水中より白馬が現れて娘を助けました。
この白馬こそ観音の化身であり、助かった娘はその後結婚して富み栄え、母を養ったということです。