無事とは何か
今年もあとわずかとなりました。
今日はお鏡餅を飾り、境内の注連縄も飾りました。鏡餅は境内の115箇所に手分けしてお供えしました。
石山寺のお鏡飾りは独特なので、毎年取材の方がよくお見えになります。
そのときには、1年を振り返ってどうだったかと必ず聞かれます。なんとお答えしようかといつも考えるのですが、短い言葉で1年を語るのはとても難しいことです。
「無事に1年を終えられてよかった」というのが正直な感想です。境内で大きな事故もなく参拝者をお迎えすることができたことや、伽藍の山が崩れたりすることがなかったのは、間違いなく幸いで、そのことをまず感謝する気持ちが浮かんできます。
しかし、「無事に1年を終えられて」と言いかけて、メディアの前でそう言うのには少し抵抗を覚えたのも事実です。「自分は無事ではなかった」という方も、少なからずいらっしゃると思うからです。
さまざまな災害、事故、あるいは病気などで無事ではない現状の人に対して、無事でよかったなどと言えるだろうか、と躊躇してしまったのでした。
そもそも、何かを発信する時に、誰も傷つけないようにするというのは難しいことなのかもしれませんが、ニュースの中の短い時間で、言葉の裏の思いまでを伝えるのは困難なことだと感じました。
それでも、大きな眼で見た時には、誰しも「無事である」と言えるのだろうと思います。
今生きている、そして思い返せる自分があるということ。
朝を迎えられたということ。
さまざまなことがあった、その中でちゃんと生きてきたということ。
そのことを「無事」と言えるのだろうと思います。
人生は苦である、というのが仏教の大前提です。
人生は思い通りにならないし、思いがけないことが起きるものです。
なんでもできて当たり前なのではない、むしろできることは「有り難い」のでしょう。
苦しみは神仏が与えるものではなく、そういうものなのだとまずは知らなければなりません。
だから諦めなさい、ということではなく、みんなそうなのだから、大きな眼で見ましょうということなのだと思います。
そんな中、皆よく生きてこられました。
これを読んでくださっている方々も、1年間お疲れ様でした。
年末は大きな目で無事であることを感じて、また新たな年を迎えられることを祈っています。
今年もありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。